ホーム日本地震工学会

書庫 > コラム

感じたまま神戸地震(その1)

 東京電機大学 教授 片山 恒雄


 (2009年)9月16日から20日まで、集集地震の10周年を記念する国際会議に招かれて台北に行ってきた。台湾では、地震が起こった9月21日にちなんで、921地震と呼ばれている。考えてみれば、神戸地震からは、もう15年近くも経ったのである。ここに書くことの一部は、すでによそでも使ったし、いまさらという感じがしないでもない。しかし、あのとき、偶然大阪にいて、いろいろな場所で時間を見つけて書き残した、いちばん大もとの文章は、まだ発表していない。直後に何を感じたかを残しておきたい。ワープロ化はしておいたが、読み直してみると、誤字脱字の多いのに驚いた。

1995年1月18日(木)の日記−地震の翌日(NHK大阪支局のダビングルームにて)

 とうとう死者が3千人に達する地震になってしまった。

 昨日の朝5時45分頃、私は大阪上六に近いホテルで寝ていた。強い揺れだった。しかしホテルの8階でもあり、これ位の揺れでビルが壊れるとは考えなかったので、寝間着のままテレビをつけた。いつものことだが、2、3分でスクリーン上に日本地図が現われ、各地から報告されてきた震度が碁石のようにちりばめられた。最大の震度が神戸6といわれたときにも、私はまだたいした地震ではないと思っていた。たぶん、気象庁の報告のほうがオーバーなのだろう。最近いつも報告される震度に比べて、実際の被害は予想以下である。そのうち、「神戸の震度6は震度5に訂正されました」という声が聞こえるに違いない。

 それでも私はテレビを見続けた。マグニチュード7.2、震央は淡路島、震源の深さはおよそ20キロという情報も早かった。15分位でわかったような気がする。私は偶然だが、第4回日米都市防災会議という、日米の研究者が都市の地震防災を話し合う会議に出席するために、前夜から大阪に来ていたのである。

 同僚の山崎文雄さん(当時、東京大学生産技術研究所、助教授)から電話があった。同じ会議に出席するために大阪に来て、同じホテルに泊まっている。奥さんのご両親が神戸の住人である。「心配だからちょっと行って来ます」という電話である。情けないことだが、そのときの私には杞憂に思われた。山崎さんと目黒さん(目黒公郎、当時、東京大学生産技術研究所、助手)の2人がホテルを出たのは、6時半頃だった。(結果的には、私はとんだ思い違いをしていたのだ。山崎さんのご両親のお宅は大丈夫だったが、ご親戚は火事で家をなくされたそうである。)

 17日は会議が始まる日である。朝食を済ませ、ホテルから5分ほど離れた会場に行って、アメリカから来ている地震防災の専門家たちと握手するときにも、「あなたたちを歓迎するために、ちょっとした揺れがきましたね」と、冗談をいっている始末である。ホテルを出る直前に見たテレビでは、数名の死者が出たもよう、数件の火災が発生しているといっていたのだ。しかし、震央と発表された淡路島の消防・防災の担当者は、「まだ大きな被害は報告されていない」と、インタビューに答えている。

 9時に会議がはじまった。そのうち、いろいろな報道機関から、会議の参加者に対する呼び出しが続きはじめた。死者の数が百を超え、火事が10ヶ所以上で燃え盛っていることが、私にはもうショックだった。時間が経つにつれ、死者の数は3百を超え、5百を超える。それまで私が考え言ってきたことが、根底からくつがえされつつある。

 会議の開会式の間に、私がノートに書き留めたメモがある。どれ位の被害になりそうかを予測してみたのである。ご丁寧にも、午前9時50分と、時間まで書いてある。地震の発生後4時間である。恥をしのんで、ここに示しておこう。自分の不明さを記録に残すためである。

     ●死者 最大6人
     ●入院が必要な負傷者 250〜500人
     ●全壊家屋 50〜100
     ●大破ビル 10〜20
     ●相当の影響を受ける橋 10
     ●落下する橋 3
     ●出火件数 20 (大規模な延焼はなし)
     ●地震動の最大加速度 0.5g (どこか?神戸市?)
     ●主要道路、鉄道(新幹線を含む)の運行停止 6〜12時間
     ●損害額 750〜1,500億円
 

 会議を気にしながら、電話に答え、ちょっとテレビを見る。1本足の高速道路が片方にねじれて倒壊し、まるで蛇がのたくっているようだ。空から見た木造の家は、瓦が全部吹っ飛んで、しかも軒が地面にくっついて倒れている。あちこちで火の手が上がり、水道が壊れてまともな消防活動もできずに燃え広がっている。もう、これは大災害である。地震工学が専門とか、都市防災が専門とか言っていた自分が恥ずかしい。ある日起こるかもしれないと考えながら、考えることを恐れていた災害がいま目の前で進行しつつある。

 テレビ局、ラジオ局から電話が来る。新聞の取材が来る。私自身が動転しており、「ともかく甘く考えすぎていた」を繰り返していたように思う。今度の日米都市防災会議は2年以上もかけて準備してきたものだ。京都大学の亀田弘行、林春男の両氏が中心となって、やっと開催にこぎ着けた開会の日にこんな地震が起こるとは、大自然はどこまでも意地悪である。アメリカから37人の専門家が参加している。昨年の1月17日(現地時間)にロサンゼルスの北方にノースリッジ地震が起こった。アメリカでは、その1周年を記念して大々的なワークショップが開かれている。それにもかかわらず、わざわざ40人近くもの関係者が来日しているのだ。

 17日の午後は、市民や防災関連機関の人たちを対象にしたフォーラムである。本来なら7百人の聴衆でいっぱいになるはずのホールには、高々150人しかいない。地震のせいで交通機関が全部止まっている。会議のために熱心に準備を進めてきた関係者の胸中を思うと複雑である。昼休みに会議の臨時運営委員会を開いた。このまま2日目のプログラムを予定通り進めるより、日米の参加者がいっしょに震災の現場を見たほうが良いのではないか。結局、これが結論となった。8つに分かれて議論するはずだったワークショップは全部お流れである。たった18時間前に最後の詰めのつもりで、スケジュールの確認から報告書の出版までを議論したのが、何日も前のことのように思える。夕方のレセプションも、ただ部屋の大きさだけが目立つ。(その1の終わり)


このページの上部へ