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トルコ旅記(その1)

 東京電機大学 教授 片山 恒雄


 これはちょっと昔の話である。21世紀も早々の2001年1月7日から10日間ほど、岡田恒男先生、室崎益輝先生とトルコ政府の招待でマルマラ地震(1999年8月17日発生、マグニチュード7.4、死者約1万5千人)の被災地の復旧・復興の状況を視察する機会があった。そのときの日記だが、放っておくと10年も経ってしまいそうなので、ここに書くことで自分自身の記憶に残したい。読んでくださる方がおられるとすれば、ご迷惑かもしれない。

 日本では、コジャエリ地震といわれることが多いが、現地ではもっぱらマルマラ地震と呼ばれている。水道の水を飲まないようにという注意書きのある国へは久し振りの旅行であり、10日間も1つの国へ滞在するのも久し振りであった。同行したのは、建築学会会長(当時)の岡田恒男先生と神戸大学(当時)の室崎益輝先生である。岡田先生を水戸黄門とすれば、私と室崎先生は助さん格さんといったところだ。

 外務省中近東第一課からの手紙には、「このたび、トルコ共和国首相府より、先の阪神・淡路大震災等経験が豊富で、地震対策技術にも優れた日本から地震分野の専門家を招待し、日本の地震対策や、阪神・淡路大震災での経験及びその後の対応に照らして、トルコ側に助言していただきたい」とあった。

 前年末に岡田先生に会ったときにも、「何をやったらいいのかね」ということだったが、とにかく出かけることにした。出発の直前にもらった予定表を見て、忙しそうなスケジュールに驚いたが、実際はそれを上回る忙しさだった。さぞかし寒いだろうと、家内手編みの長さ3メートルもある襟巻き持参で出かけたが、着いたトルコは例年にない暖冬だった。

2001年1月8日(月)- 1日目

イスタンブールは安全とは思えない

 視察の1日目はこんな具合だった。
10時、イスタンブール市長を表敬訪問。10時45分、副市長から、イスタンブールの地震災害対策の説明を聞く。1時間半ほどの独演である。副市長は災害管理センターの責任者でもあり、いかにも手馴れたという感じでマルマラ地震以降の市の地震対策を聞かせてもらった。

 これだけ準備したという数をいやというほど聞かされた。「これもやった」「あれもやった」「これができる」「あれもできる」という数、数、数のオンパレードである。東京に外国の専門家が来たら、きっと同じような説明をするのだろう。マルマラ地震によってイスタンブール市内でおよそ1,000人の人が亡くなった。半分は市民、残りは地震後市外から避難してきた約1万人のうちイスタンブール市内で亡くなった人たちである。

 しかし、古くてもろそうな建物が軒を連ねた人口1,400万の歴史都市の地震対策は、副市長の説明とは裏腹に問題だらけである。日本の大都市にもたくさんの問題が残されているので、とても他人ごととはいえないが、イスタンブールに十分な対策が施されているとは思えない。

 地震後、地理情報システム(GIS)を使った震災対策をほぼ完備したという。システムはきれいだが、きれいなものがどこまで本当に役に立つのか。数値や図表だけではわからないことが多い。お役人の説明はどうしても自己弁護型になる。発表されたことの裏に何があるかを知ることが大切だ。(当時、私は、防災科学技術研究所という国立研究機関の所長を務めていたから、もって銘とすべしと痛感した。)

 昼食はトプカプ宮殿の中のレストラン。裏門を特別開けてもらって入ると、市庁舎から車で2、3分しかかからない。「裏口入門」は政府の正式な招待のおかげである。

大学訪問

 昼食の後、イスタンブール工科大学の構造実験棟を訪ねた。日本国際協力事業団(JICA)の支援を受けて10年ほどトルコの研究者と共同研究をしている。マルマラ地震のずっと前からやってきた共同研究が、若いトルコの耐震工学の研究者を育ててきた。

 JICAのサポートは終わったが、その時の施設と研究者は残った。だが、あれだけの大災害が起こったにもかかわらず、大学の研究費は大きく増加していない。大学の研究は目先の防災対策にすぐ結びつくものではなかろうが、こういう機会にこそ将来の土台づくりをすることの大切さも理解すべきだろう。

 阪神・淡路大震災後の日本も似たようなものだった。大学の研究費はたしかに増えたが、たいしたことはなかった。不景気のあおりを受けて、建設業界での研究もあまり進んでいない。ただ、国の研究機関(今は独立行政法人)ではお金も仕事も大幅に増加した。大学の研究者と政府の防災関係者の間には十分な信頼関係がない。国の防災担当者は、大学の研究をどこまでも個人の趣味的なものと見なしがちだし、大学の研究者の多くは、えてして近視眼的になりがちな国の防災対策を研究と見ることを潔しとしない。両者が知恵を出し合うことの重要さはどこの国でもあまり理解されていない。

 イスタンブール工科大学には、ヤラール教授という、トルコの地震工学の主のような人がいる。もうとっくに80才を越えていると思われるが、まだ学内に研究室をかまえ、週に2、3日は出てきておられるという。表敬訪問する。(その後、亡くなった。)

私たちの反論

 夕方6時すぎから2時間ほど、イスタンブール市の災害調整センターを訪ねて意見交換。このセンターは市の消防庁舎にあり、責任者は消防総監である。

 ここがイスタンブール市の地震防災計画をつくっている。1994年、マルマラ地震の5年も前に、イスタンブールの地盤調査を始めていた。だから、地盤の特性はもうわかっている。2000年には市内に強震計20台を設置した。現在は2つの大きなプロジェクトが進められている。1つは、3つの想定地震を対象にした市内の震災リスク解析、もう1つは、地盤・地質の違いを考えた危険度地図づくり(マイクロゾーニング)である。この2つが終われば、後は何でも来いといった雰囲気の説明があった。

 これを聞いて、助さん格さんが食いついた。地震防災を少し楽観的に捉えすぎていないか。これまで4回おこなった東京の地震被害想定の結果はずっと悲観的だ。神戸ではわれわれは失敗した。きれいなパンフレットづくりより、もっと本気で考えるべき問題があるのではないか。これが、黄門さんチームと約10人の災害調整センター関係者の間で大論争を引き起こすことになった。イスタンブールの人たちの痛いところをついた形になったのだろう。彼らとしても、イスタンブール市がかかえている問題の大きさ、難しさはわかっているに違いない。いまのイスタンブールの建物と街の形態を考えると、ここに強い地震が来たら本当に怖い。マルマラ地震の後、イスタンブールの地震安全を考えろといわれて、否応なく出した結論なのだろう。

 もう一つ感じたことは、大災害の後、いくつかの災害対策が複数の機関、グループで重複して行われているらしいことだ。地震防災を市民に啓蒙するためのシステムづくりはその好例であり、米国の連邦緊急事態管理庁(FEMA)までが関与して、トルコを三分、四分しているように思える。これを何とかしないと、後のち関係者の間にしこりを残すことになろう。そんな雰囲気はすでに見えつつある。(その1の終わり)


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