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東大生研にINCEDEをつくって−私の国際交流(その6)

 東京電機大学 教授 片山 恒雄


国際防災の10年がスタート

 1984年にサンフランシスコで開かれた第8回世界地震工学会議の招待講演でフランク・プレスが提案した「国際防災の10年(IDNDR)」は、1987年、日本とモロッコの両国により国連総会に提出され、ほとんど満場一致で正式な国連決定となった。フランク・プレスは地球物理学者として著名であり、当時米国科学アカデミー会長や米国学術研究会議議長などを務めていた。プレスの知名度と政治力もあったのだろうか、このような10年計画としては異例のペースで実現した。

 こうして、1990年1月1日、「国際防災の10年(IDNDR=International Decade for Natural Disaster Reduction)」は、正式な国連の10年プロジェクトとしてスタートした。

 ただし、国連は、このプロジェクトのために特別の基金を準備するつもりはなかった。IDNDR の活動は、各国、各団体が自分たちで調達する資金に頼っていたのである。私たち地震防災の関係者をはじめ、研究者、国際社会の見通しはきわめて甘かった。発展途上国が「国連の正式なプログラムになれば、何か良いことがあるだろう」と考えたのも当然なら、先進国にとっては「お金を出す必要がないのなら反対する理由のないプログラム」、それがIDNDRだった。

 私は、ニュージーランドの第12回WCEEの特別セッションで、地震工学者から見たIDNDRについてレビュウ講演を行う機会があり、「あのとき以来、満場一致の決定には、何か胡散臭いことがあると考えることにした」といって失笑を買ったが、偽らざる気持ちである。

私たちに何ができるだろう

 私は、1988年から、国際地震工学会(IAEE)の事務局長になっていた。IAEEは世界地震工学会議(WCEE)の開催に責任をもつ団体であり、IDNDRの原型にあたる提案は、1984年サンフランシスコで開かれた第8回世界地震工学会議(8WCEE)でなされたのである。IDNDRがスタートしてから、世界のあちこちで大小の国際会議が開かれるようになったが、研究者としてもっと実質的なことができないだろうか。たんに小さな国際会議を主催したり、大きな国際会議に参加するだけでは物足りなかった。

 最初の提案がなされた場にいた者の一人として、どんな形でIDNDRに貢献できるだろうかと考えざるをえなかった。当時、東大生産技術研究所(東大生研)にいた私は、大学の研究者として何かできないかと考え、1991年にINCEDEをつくった。また、国際的には、IAEEの下部組織としてWSSI(世界地震安全推進機構)をつくった。WSSIについては、回を改めて書くことにする。INCEDEの設立にあたっては、当時東大生研の所長を務めておられた岡田恒男先生と京大防災研究所の土岐憲三先生が強くサポートしてくださった。

 センターの発足は1991年4月1日である。INCEDEの正式な名前は、「国際災害軽減工学研究センター」、英語では、”International Center for Disaster Mitigation Engineering”、INCEDEはインシードと発音する。岡田恒男生研所長は、センターのスタートに当たって、独立の部屋と5千万近い予算を付けてくださった。(もうすこし少なかったかもしれない。) 人員についても、いろいろとやりくりして、外国人教授を含む4人のメンバーが働けるようにしてくださった。今から思えば破格の後押しであった。

 スタート時のメンバーは、
   日本人教授 片山恒雄(センター長)
   外国人教授 プラマニク(バングラデシュから)
   助教授   スリカンタ・ヘーラト(東大生研・虫明研究室から)
   助 手   目黒公郎(東大地震研究所・伯野研究室から)
である。プラマニク教授は環境科学、ヘーラト助教授は水資源・水災害、目黒助手は地震工学を専門、私はセンター長としてもっぱら広報宣伝と無責任なアイデア提供を担当した。プラマニク教授は結局日本になじめず、ご本人にとっても残りのメンバーやその他のスタッフにとっても、適切な人事だったとは思われない。プラマニクさんの後からは、たとえ外国の人を採用する場合でも、かならず国外で面接してから決めることにした。プラマニクさんが帰ってからは、片山・ヘーラト・目黒にAIT卒業のダッタさん(現:オーストラリア・モナーシュ大学)の4人となった。

 センターの4人のメンバーに加えて、日本人のアルバイト、外国人留学生の奥さんたちのアルバイトが何人もいて、INCEDEは熱気にあふれていた。活動が活発になるにつれてスペースが足りなくなり、勝手に屋根裏部屋をつくって、事務の人から「消防法違反」と大目玉を食らったこともある。ヘーラトさんは今は国連大学でバリバリ活躍している。目黒さんはわが国の地震防災を引っ張る堂々たる東大教授である。

INCEDEが目指したもの

 私たちがまず目指したのは、災害情報を世界に発信する、小さいなりに国際的なセンターをつくろうということだった。

 ここに、INCEDEが最初につくったパンフレットがある。見開き4ページ、各ページの左半分に英文、右半分に和文を配したパンフレットの表紙には、その年の1月にパキスタン北部を襲ったチトゥラル(Chitral) 地震の調査に行ったとき、山崎文雄さん(現・千葉大学)が撮ってきた写真を使った。全壊したアドベの家の前にしゃがんでカメラを見ている6人の少年たちが写っている。子どもたちの表情は悲惨すぎるでもなく、いま見ても素晴らしい写真だ。

 そして、このパンフレットに、INCEDEが何を目指すかが書いてある。いま流行の言葉でいえば、マニフェストといったところだろうか。少し長くなるが、全文を引用しておきたい。まず、裏表紙にあたる部分には、

「国際災害軽減工学研究センターの当面の研究課題は、都市施設耐震、水災害、 地盤災害、および災害地理情報に重点を置いたものとし、「国際防災の10年」 の目的と協調しつつ活動を進める」

とある。当面の研究課題としては十分すぎる位大きい。また、見開きの2ページ目には、”STANDING UP TO NATURE“というタイトルで、次のように書いている。

「自然災害の発生は阻止できない。世界のあちこちで地震が起こり、何千、何万の人命を奪い、大きな物的被害を及ぼしている。これらの人たちは、地震さえなければ、災害ではなくむしろ自然の恩恵を受けて生きていられたのである。      自然災害がわれわれの社会に及ぼす影響は軽減できる。多数の人命を救い、 莫大な物的被害を減らすことはできる。日本は自然災害の被害を受け続けてきた。地震、津波、台風、高潮、豪雨、洪水、地滑りなどの地盤災害、数え上げればきりが無い。その経験からわれわれは自然と向かい合って生きていく知恵を身につけてきた。これらの貴重な経験は、自然災害の危険にさらされている世界中の人々が共有すべきであり、共有できるのである。国際災害軽減工学研究センター(INCEDE)の目的はここにある。   国連プログラム「国際防災の10年(IDNDR)」が進められている。国際連合 の名のもとに世界のすべての国々が自然災害の軽減のために力を合わせよう、 1990年代をそのための10年間にしようというのである。力不足かもしれない。 しかし、このセンターが、自然災害から人命と財産を守り社会的・経済的損失 を軽減するために、世界中の科学者や技術者が協力して学び働くところになる ことを願ってやまない。

国際災害軽減工学研究センター
センター長  片山 恒雄
1991年6月」

具体的に何をしたか

 私たちがまず考えたのは、世界の研究者の目を引く ”Newsletter” と “Report” を発行することであった。しかも、これらが、優れたとは言わないまでも間違いが最小の英文によるものとなるよう、ミスタイプなどには最大限の注意をはらった。これには、当時フィリピンから留学生としてきていたモラスの奥さんが素晴らしい仕事をしてくれた。ところで、INCEDE は現在 ICUS(International Center for Urban Safety Engineering:都市基盤安全工学国際研究センター)として形を変えて活動しており、やはり”Newsletter” を出しているが、モラス夫人のように有能な人を見つけるのは難しいのか、小さなミスが目立つ。こういった印刷物に「多少のミスは付きもの」という考えは捨てなければならない。

 ”Newsletter” に関する思い出は多い。IDNDRの提唱者フランク・プレスに巻頭言を依頼した。プレスを横綱とすれば幕下付け出し程度の INCEDE の ”Newsletter” に力作論文を寄せてくれた。1993年北海道南西沖地震のときは、山崎・目黒と当時読売新聞にいた入江さやかさん(現・NHK)がすぐに奥尻島にとび、東京でセンターを守っていた私が中心となって号外を発行した。また神戸の地震のときには、プロの目で見た最初の英文のレポートを ”Newsletter” として発行し、世界的に大きな反響を呼んだ。

 “Report” に関しても、表紙の見栄えのよさにずいぶん凝った。この辺になるともう記憶が怪しくなるのだが、第1号は私たちの意気込みをまとめたもの、第2号は、神戸の地震の前年に米国西岸で起きたノースリッジ地震の調査に行ったときに何人かの防災関係者にインタビュウしたもののまとめだったように思うのだが、間違っているかもしれない。どこに発表したかはともかく、このインタビュウ論文を面白いといってくださった方がアメリカにも何人かおられた。

 国際会議の事務局もいくつか務めた。また、国内で開かれた国際会議には必ずといっていいほどポスター展示することにした。また、そのような機会には、興味を示してくださる方に簡単な履歴を書いてもらい、その場で撮った写真を添えて、いわばINCEDEメンバー・ネットワークのようなものを充実させた。

 海外の著名な研究者を短期間招いたりもしたし、フィリピンを相手に水災害の分野で国際共同研究第1号をスタートさせた。フィリピンの研究者を4人ほどINCEDEに招待した。私自身は現地には2、3回しか行かなかったが、両側に何もない軍隊用ヘリコプターで噴火後間もないピナツボ火山の上を飛んだ。ピナツボの上は上昇気流が強くて怖かったが、私のカバンを持たされた目黒さんは片手が使えず、もっとひやひやしたそうだ。

 1994年に、IDNDRの10年期間のほぼ半分を終えたということで、日本政府がお金を出し、世界中の国々の防災担当者を招いた国際会議が横浜で開かれた。南太平洋の島々からもたくさんの代表が来日した。そのときのフィジーの代表団の1人が、お互いに顔見知りだったこともあり、「日本の中古車を買いたい」と相談してきた。そこで、私はごく気軽に目黒さんに、面倒を見てやってくれと頼んだ。当時、目黒さんは助手だった。

 その後がいかに大変だったかは、何度も目黒さんから聞かされている。フィジーの人と中古車の専門店を何軒も回ったそうだ。その中に、意気に感じて、「協力しましょう」と言ってくれた人がいたらしい。私は、そんなことはすっかり忘れていた。1995年か1996年のことだったが、INCEDEとWSSIが協力して、フィジーで津波防災のワークショップを開いたときのことだ。横浜で中古車が買いたいと言ってきた本人のみならず、横浜の会議に来た何人かの人たちがみんな日本の中古車を運転していたのには驚いた。

 ともかく、目立つことは何でもやった。おかげで、2、3年のうちに、東大生研に INCEDE あり、日本に INCEDE ありという印象を、国の内外に植え付けることができた。こんなやり方が、最善と言い切るつもりはない。あくまでも、「その存在を世の中に示せない機関は無いに等しい」という、わたし流のやり方だった。(その6の終り)


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