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名誉会員 金井  清先生のご逝去を悼んで

日本大学総合科学研究所生産工学部 工藤 一嘉

 本会名誉会員の金井 清先生は、わが国と世界の地震工学(エンジニアリングサイスモロジー)を萌芽期から第一人者として牽引してこられましたが、平成20年4月13日に満百歳の天寿を全うされ永眠されました。会員の皆様にご報告申し上げ、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

 金井先生は明治40年(1907年)7月25日に生誕され、青年期の初めころまで現在の広島市南区東本浦町でお育ちになりました。金井先生は昭和3年に広島高等工業学校電気科(現、広島大学の前身)を卒業され、母校で助手をお勤めでしたが、昭和6年に東京帝国大学地震研究所の妹澤克惟先生の門をたたかれ、妹澤先生と面談された次の日から仕事を開始されたとのことです。以来昭和43年に定年を迎えられるまでの37年に及ぶ地震研究所でのご活躍が始まりました。昭和9年に助手に、昭和16年に技師、昭和36年東京大学助教授、昭和38年教授を歴任されました。地震研究所では初代の強震計観測センター長や地震研究所所長事務取扱などを歴任されています。また非常勤講師として、国内の多くの大学で教鞭をとられましたが、海外でも昭和34-35年にCalifornia大学(Los Angeles校、Berkeley校)、California Inst. Tech.の招聘教授をはじめ、メキシコ自治大学・チリ大学などで特別講義をされました。東京大学をご定年の後には日本大学に請われて生産工学部教授として赴任され、昭和47年から5年間学部長と日本大学理事を、昭和51年には日本大学副総長に就任されました。昭和52年の日本大学ご定年後も顧問あるいは非常勤講師として、傘寿をお迎えのころまで日本大学の発展に直接ご尽力されました。

 金井先生の初期のご研究の多くは妹澤先生との共同研究ですが、そのほとんどが地震研究所彙報に英文で掲載されています。その最初の論文は地震波が地殻に垂直に入射した場合の地表の応答を数値解析されており、後の金井先生の代名詞の一つとも言える「重複反射理論」に関わる内容で、極めて因縁が深い印象を受けます。しかし、なんと言ってもこの時期の金字塔は、表層がある場合のRayleigh波のご研究で、妹澤先生とともに分散曲線のもう一つの系列M2波の存在を発見されたことでしょう(1935年)。層がある場合のRayleigh波の位相速度に分散性があることは妹澤先生よって発見(M1系列)されていました(1927年)。M1を想定して数値計算を進められる中で、金井先生は「レーレー波の分散曲線を、試行錯誤法で計算している時、予想外の答えが出て、説明がどうしてもできないので、計算用紙を“紙袋”の中にしまいこんでおいたのは昭和6年であった。―中略―妹澤先生の外遊があったりしたので、レーレー波の分散曲線が2種類あるという確信を得て最初に発表したのは昭和9年―後略」(地震研究所創立五十年の歩み)と述懐されています。当時は数表・手回し計算機などを駆使して数値解を求める以外になかったこと、発見の正しさを確認するため幾度か検算をされたであろうことを思うと、電子計算機の中で育った世代の我々には想像を絶するものがあります。弾性波動論の最後の大きな発見がお二人によって成し遂げられたと言えましょう。

 この時期に同時並行的に建物の振動や地下逸散の問題にも多くの論文を書かれております。昭和16年に、「筋違いの耐震効果の理論」で工学博士(東京帝国大学)の学位を取得しておられます。先生は、博士論文を書かれたころから振動台の作成・実験や木造の振動実験など、それまで数理的研究一筋から、研究の範囲を広げられたように思います。長野地震(1941年)の被害調査は地震研究所の建物の外で行った初めてのお仕事と伺いましたが、その報告(彙報)の詳細さには驚かされます。この調査の過程で苦々しくお感じになったようですが、「さきがけの解説はじゃま震災時」という名言(句)を残されています。1940年を過ぎたころから、それまで年間10数編(ほとんどが英文)という驚異的論文発表のペースが極端に少なくなります。しかも日本語に限られ、明らかに太平洋戦争の影を感じます。研究を続けることも難しい時代でしたでしょうが、発表できなかったことの方が理由として大きかったと想像しています。同世代の故萩原尊禮先生の著書「地震予知と災害(丸善)」に戦時中の大地震や噴火そして軍部の影響を述懐された部分(p56)があります。「―前略―金井清さんがこの二つの地震(東南海地震・三河地震、筆者挿入)を大変詳しく調べられました。ところが、金井さんが広島の原爆調査に行っている留守に、八月十五日を迎えたのです。―中略―金井さんの調査記録は命令に忠実に従った女子職員の手によりすべて焼却されてしまったのです。大変残念なことでした」

 昭和22年から20年間日立鉱山地下3ヶ所(150、300、450m) での地震観測をされました。その目的はM2-waves (Sezawa waves)の実在性を確認するために地中振幅分布を把握することにありましたが、所期の目的以上に輝かしい成果が地震工学の分野にもたらされました。すなわち地震動予測式(実験式)として名高い「金井式」の創出に繋がったことです。基盤の概念や観測から得られた地震動の速度スペクトル一定などの知見が背景となっています。この観測にやや遅れますが、ほぼ同時期に表層の地盤震動にも着目され、木造家屋等の震害に最も強く関連するのがS波の重複反射であることを指摘されると共に、常時微動の測定結果が地盤震動特性の把握に有効な手段であることを提案されました。それには国内各地(後にCaliforniaでも実施)で精力的に測定した事例が背後に控えていましたが、共同研究者・協力者の田中貞二先生、吉沢静代氏、故長田甲斐男氏、故森下利三氏、故鈴木富三郎氏などの方々が大いに支えられたと伺っています。

 常時微動の観測解析が建築基準法にある4種地盤(当時)の判定に援用されてきたこと、さらに多くの分野にも利用され、地震工学の分野で燦然と輝くご業績の一つかと思います。この一貫したご業績が評価され、昭和31年に「地盤の振動と建物の耐震性に関する一連の研究」で日本建築学会賞を、そして昭和52年には「常時微動を観測して地盤を調べる方法を開発し,耐震設計用の地震動を予測する金井式と呼ばれる公式を確立するなど耐震工学の発展に大きく貢献しました(後略)」により『朝日賞』を授賞されています。

 長野地震でも触れましたが、震害調査も先生の重要な研究の位置づけと考えられます。終戦直後の南海地震(1946年)、福井地震(1948年)、桜島噴火(1946年)、今市地震(1949年)などの他、米国に招かれた時期にチリ地震が発生し(1960年)たため、カリフォルニアから米国の調査団員として参加され、帰国後に新潟地震(1964年)、松代群発地震(1965年〜)など、被害地震の多くを調査されています。その中で、松代地震群を強震計で移動観測をされています。そのデータに基づき、前掲の「金井式」を震源近傍まで適用できるように改良されましたが、強震計による移動観測は、少なくとも国内では初めての例ではないでしょうか。当時の普及型強震計の重量が数10〜 100kgもあったので、6か所も臨時に置かれたことは驚異的なことです。福井地震の後に我が国の強震計を開発するための委員会メンバーとして、また地震研究所強震計観測センター長の初代として、強震観測事業推進連絡会議の委員などを通して強震観測の発展に貢献されました。

 金井先生のご生涯の中で、広島の原爆との関わりに触れざるを得ません。原爆が投下された時は東京におられましたが、萩原先生の文章にありますように、学術研究会議(当時文部大臣所管)の要請で即刻現地に赴かれ、爆弾の威力を計るために墓石の調査をされました。この調査で被爆され、被爆者と認定されました。それ以来、命の限界を意識されるようになったと述懐されております。調査中に遭遇された故郷広島の惨状について、後にご覧になった映画、絵画、体験記などや「ヒロシマノート」(大江健三郎著)をもってしても「筆舌に尽し難し」と記されています。

 金井先生はスポーツとお酒をこよなく愛された方でもありました。特に野球では投手でしたが、「投手と捕手しかボールをさわらなかった、ギネスブックものの試合もある」とお酒が入ると良くご自慢されていました。そのお酒は、お歳を召されてからでもかなりの酒量でありました。地震研究所の談話会や地震災害研究部門の研究会にご出席いただいた後などに、お酒を片手に若手と議論し、若手同士の議論を楽しんでおられました。現在は発刊されていませんが、「趣味の雑誌 酒」に寄稿された(1985年)短い随想で、酒豪(地震工学者では世界一とのジョーク)を自認しておられます。その記事には毛筆で「酒 金井清」が記されており、大変味わい深い書に思います。

 先生の中心的なご業績を紹介させていただきましたが、何故か、ほんの一部しかご紹介出来ていないような思いに駆られます。金井先生の場合は、紹介を割愛したご業績・受賞・交流・談話・随筆などにむしろ真髄が多く含まれているが故かもしれません。

 ご遺影は先生の米寿のお祝いの時のもので、お好きだったお酒をお持ちなっている部分をあえて含めました。
金井先生どうぞ安らかにおやすみください。

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