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バンダアチェはいま(その1)

 東京電機大学 教授 片山 恒雄


 2004年12月27日、インドネシア・スマトラ島の沖合に起こったM8.9の地震に伴う津波は、インド洋周辺の国々で23万人もの犠牲者を出した。たくさんの人がビデオを持つ時代だ。津波が押し寄せすべてを流し去る光景を、世界中がテレビで見る初めての機会となった。最大の犠牲者はスマトラ島西端のバンダアチェを中心とした地域に集中した。津波発生から2年ほど経った2006年11月に現地を訪ねる機会があった。だから、「今」といっても、1年半ほど前のことである。

着くまでが大変

 この話はもともと京大のラジブ・ショウ助教授から持ち込まれたものだ。

 ラジブは、私たちがここ10年以上やってきた、非営利事業「世界地震安全推進機構 (WSSI)」の理事の1人であり、この機構のビジビリティーを高め、いつも貧乏な機構の一助になればと、京大が世界銀行と契約したプロジェクトにWSSIを一口かませてくれたのだ。インドネシアには、長くWSSIの理事として一緒に仕事をした テディー・ブーンがいる。かれが現地の責任者として全面的に協力してくれるというので、大船に乗ったつもりで京大と共同研究の契約を結んだ。契約の金額は1万8千米ドルだから、約200万円というところだ。

 成田を出発したのは、2006年11月27日(月)の夕方7時。その前の2週間が忙しかった。14日から3日間プーケット島(タイ)に出張。帰国の翌日は大矢さん(応用地質の元社長)の告別式。大矢さんもWSSIの活動に長いあいだ付きあってくださった。このためにタイの出張を2日間短縮した。22日には、土岐先生(立命館大学)に頼まれた講演のため大阪出張。24日(金)、25日(土)は「子どもの安全安心」という新しい研究領域の可能性を話し合うワークショップの座長をつとめ、25日(土)の午後は東京電機大学の卒業生の集まりで講演。27日(月)の午前中、消防研究センターの評価委員会に出席後、そのまま成田空港へ向かった。

 空港に着いたのは、午後3時前だった。格安の航空券で旅行した人なら、誰でも経験しているだろうが、航空券は空港で受け取る。しかも、飛び立つ4時間も前にカウンターに出向かねばならない。もちろん、ラウンジが使えるわけでもなく、4時間待つのはしんどい。だが、これは、大変な旅行の序の口だ。シンガポール着は、現地時間で28日早朝1時半。バンダアチェに行くには、メダン(インドネシア)で乗り換えなければならず、シンガポールからメダン行きの第一便が飛ぶまで6時間以上待つ。シンガポール、メダン間の実際の飛行時間は1時間そこそこである。さらに、メダン空港でバンダアチェ行きの飛行機を6時間ほど待った。目的地に着いたのは、28日(火)の午後4時前、成田空港で航空券をもらってから丸1日経ったが、その3分の2は、空港での待ち時間。いい加減疲れた。

 その上、バンダアチェの空港では待っているはずの人がいない。初めのうちこそ、そのうち迎えに来るさ、と自信満々でしつこく言い寄るタクシーを断り続けたが、いつまで経っても誰も来ない。空港に残った人間が2人になり、もう1人にも迎えが来たときには、さすがに心細くなった。宿のアドレスは持ってきたが、インドネシアのお金は一銭も持っていない。小さな空港で、銀行もない。

 そのとき、一人の青年があたふたと駆けつけて来た。インドから来るはずのお客さんを迎えに来たが、遅れてしまったらしい。私と同じ便に乗っていたはずだという。ところが、空港にはもう私しかいなかった。幸い、この青年が宿まで送ってくれた。地獄に仏とはこのことだ。インドネシアの最後の夜となった30日(木)、バンダアチェでいちばん美味しいというヌードルのお店にこの青年を招待した。彼がいうには、私は少なくとも1時間は空港で待っていたらしい。

 ラジブは大いに怒っていたが、なぜ誰も迎え来なかったかは結局わからずじまい。搭乗者リストに名前がなかったというのだが、インドネシアだからというのが最大の理由かもしれない。

 荷物を解き、家主さんにテディーに電話してもらったがつながらない。そのうち帰ってくるだろうとベッドに横になったら眠り込んでしまった。ラジブとテディーは心配したらしい。大変な旅とわかっていたから、どこかで飛行機に乗り損なったとも思ったらしい。急に予定が変わったのかと、私の家に電話してくれたそうだ。ラジブが携帯電話で家内を呼び出してくれた。ことの顛末を説明したが、ともかく、ホッとしている様子が電話ごしにうかがえる。

泊まったところ

 この旅行ではホテルはとらず、テディーが手配してくれた民間のゲストハウスに泊まった。津波の後、世界銀行の人たちが定宿にした場所だという。もう、あまり泊まる人もなく、私とテディーと彼の部下の3人だけだった。街中を少し離れた住宅街にある立派な家である。朝食付きで1泊35万ルピア、4泊で140万ルピアだった。日本円にして、4泊でおよそ1万7千円というところだ。

 3人の子どもたちはみんなメダンの学校に通っており、家主さん(52歳)と奥さんの2人暮らしである。がらがらの大きな家を津波復興でアチェに来る世界銀行の人たちに提供しているのだ。一時期は、もっとたくさんの人たちが長逗留していたらしい。

 このあたりではもっとも立派な家に見えた。朝、玄関から通り(といっても未舗装だが)を見ると、お向かいの親父さんが下着にパンツ姿で、ときどき手鼻をかみながら、竹ぼうきみたいなもので玄関の外をのんびりと掃除している。

 家主のアッバスさんは銀行員。1999年に建てたこの家も、津波のときには、玄関のところまで水が来たそうだ。地震の揺れも激しく、近所では被害を受けた家もあったらしいが、さいわい、この家は無被害ですんだ。

 どの部屋もタイル張り。シャワーのあとなど、ぬれた足で歩くと滑りそうで怖い。部屋やベッドには不満はないが、電気が暗くて、その上ときどき停電する。宿に戻ったら、水シャワーを浴びて寝る以外はない。初日の寝る前に、奥さんが蚊よけ、ゴキブリよけのスプレーを持ってきてくれた。いずれのお世話にもならずにすんだが、着いた日の夜、部屋の隅に大きなひき蛙がいたのにはびっくりした。

 アッバスさんは日本びいき、家の中のちょっとしたものは、ほとんど日本製である。2台の車はホンダ、テレビはソニー、空調はパナソニックといった具合だ。津波の被害も地震の被害も受けなかった比較的リッチな人たちが、災害のあとさらにお金をもうけたのである。(その1の終わり)


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