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トルコ旅記(その5)

 東京電機大学 教授 片山 恒雄


2001年1月12日(金)- 5日目

午前は退屈

 終日アンカラ。結果を先に書こう。トルコに着いてからもっとも意味のない1日だった。

 午前9時半、トルコ科学技術研究会議の地震研究関係者を訪問。相手側は3人のシニアな先生方である。開口一番、「なぜ来たのか、目的は何か」と聞かれたのにはびっくり。連絡が良くとれていなかったのはお役人の側にも責任があるが、こんな質問をすること自身が学者の馬鹿さ加減を表している。後で聞いたら、岡田黄門さまでさえ、むっとして何か言い返そうと思ったという。ここでぐっと我慢するのが黄門さまの偉いところだ。

 マルマラ地震後、科学技術研究会議の中につくられた地震関係の部門が何をやろうとし、何をやったかを説明してくれたが、要するに、まだ何もやっていないということらしい。「われわれは学者だ」を振りかざし、シニアな学者(それもアンカラ中心の学者だけのように思えた)を集めて、全国地震会議を設立し、関係分野の調整を目指している。「先生方は忙しいので会議の日程を決めるのが難しい」という。

 ともかく、実際に役に立つ科学をやり、成果を出すことは、はじめから眼中にないのだから、学者馬鹿も一級品である。大体、国が何をやっているかは知らず、知ろうともしないのだから立派なものだ。「国に提案し、国民が信頼してくれる成果を出す」というが、すぐに役立つことは目指さないという指針を持つ人たちの集まりである。被災地の人たちは待ち続けることはできない。次の地震が明日来てもおかしくないということがまったく実感できない専門家の集まりである。今までやったことは会議だけ。時限付きの計画は無いと堂々というだけたいしたものだ。

 研究者と実務家とのギャップがこんなに大きくては、役人、研究者、市民の信頼関係は永久にできないだろう。政策と戦略の提案などという言葉のいかに空しく聞こえることか。

午後も退屈

 午後2時、公共事業省の災害総局長を訪問。なんとも態度の大きい局長さんだが、笑えば、それなりに可愛いところもある。公共事業省が地震後に行った対策についてのブリーフィングはもう聞きあきた。

 岡田黄門さまの話もちょっと長すぎた。途中から話はトルコが考えている地震保険に集中し、陪席した二人の女性と黄門さまのやりとりに終始した。黄門さまの日本の現状把握もかならずしも的を射たものとはいえず、充実した議論とはならなかった。

 トルコが考えている地震保険は日本のいわゆる地震保険とはだいぶ性質が違い、自動車の強制保険みたいなものらしい。イスタンブール1,100万人の人口が全人口の20%位を占める国で、イスタンブールが被災しても破たんしないシステムをどうやってつくるのか。具体的な内容についてこっちから聞きたいことの方が多い。(結局、この保険システムはうまくいかなかったそうだ。)

 最後は同じ災害総局の敷地内にある地震調査センターを訪問。所員の帰宅時間に近かったとはいえ、このセンターの「死んだ」様子にがっくりする。太田裕先生(元・東大地震研究所)がこのセンターを基地にして、地震計ネットワークをつくり、それから得られる信号をもとにリアルタイムの地震防災シナリオをつくる研究をJICAの支援でスタートさせたが、そのときの熱気はほとんど感じられない。共同研究の相手を選びそこなったか、共同研究としての組織づくりに失敗したかのどちらかである。ともかく残念である。ここで昨年の2月まで4ヶ月ほど防災科学技術研究所(つくば市)に来ていた青年にあう。彼もあまり元気のある研究者とはいえない。


2001年1月13日(土)−6日目

アンカラのお役所訪問

 9時半、ホテル出発。徒歩で5分ほどの首相府危機管理総局長を訪問。国としての地震対策はここと公共事業省の災害総局が担当している。

 岡田黄門が、われわれがみた復旧・復興、とくに被災者用の恒久住宅の建設計画、中破建物の強化の進め方などについて、日本の研究者としての感想を述べる。

 住宅建設の進展ぶりには感心したこと、中破建物の補強のやり方については問題ありと思われること、あちこちでGISを使った防災システムを開発しているが、システムが出来たからといって、地震対策が出来上がったと考えてはいけないこと、古くて弱い建物を着実に強化することがやはり一番大切であることなどを述べた。さすがに、うまいものである。

 黄門さまの話が長すぎて、私が感想を述べる時間はほとんど残らなかったが、私は3点を指摘した。@地震防災対策においては、調整が大切である。日本では神戸の地震以降、科学技術庁に地震調査研究推進本部がおかれ、地震調査に関しては国の意見統一を図っている。Aマルマラ地震への対応はすばらしいが、イスタンブールの地震問題は深刻であり、どれ位の被害が起こりそうかを市民に知らせることが大切。B研究者グループ間に対立が見られるような気がし、将来に問題を残さないか。イスタンブールに大被害が起こる可能性を発表すると、市民にパニックが起こるのではないかという反論があったが、地震が来てからでは遅いというのが私の意見である。

 11時過ぎ、首相府の次官、さらに12時過ぎ同次官補を表敬訪問。マルマラ地震で市の中心部が大被害を受けたアダパザル市(サカリヤ県)における国の対応が説明された。

 アダパザルは、市心部が大被害を受けたので、都市改造を考えている。比較的簡単に直せるものについては、大体直しおえた。被災者用住宅の建設が終わった後で、大規模な都市再建に取り組む。市心部を引っ越してしまった方が経済的という学者の意見もあり、被害が大きかった市の中心部は低層建物のみとし、高層ビルの建設は新市心に限ることとした。

 将来のトルコの地震防災は、危機管理総局(首相府)が中心となるのか。または、公共事業省の災害総局との一体化がはかられるのか。いずれにせよ、強い調整力を持つ政府の機関が必要である。

ちょっと一服

 午後3時頃からアンカラ市内を車で一まわり。ヒッタイト文明の博物館には、わざと台座だけが置いてあるものが何ヶ所かある。その上にあった像はドイツやイギリスが自国の博物館に持って行ってしまったのだ。アンカラ市最大のモスクを見学、市内でもっとも背の高い見晴らしタワーから夜景を見る。

 夕食は大使に招かれる。大使は日本の対外援助活動(ODA)に関係されたことが多かったようで、国際援助に関してもいろいろと個人的な意見を持っておられた。

 われわれが訪ねたデュズジェの近くの日本―トルコ友好村についても、批判的な見解をはっきりいわれたのには、びっくりした。神戸市が送ってきた被災者用の仮設住宅をトルコで組み立て直すのには大変苦労した。送ってきたのは良いが、ボルト・ナットなどの部品がきちんと揃っていなかった。送り出す側がまったく準備不足のままで好意の押し売りをしたようだ。「私は神戸市が送ってきたとはいわない。日本国民が送ってきたという」大使のこの言葉に、複雑な気持ちが込められているように感じた。

14日は日曜日(7日目)

 地下都市として有名なカッパドキアへ日帰りの強行軍の観光。平均時速180キロのベンツで行きも帰りもつっ走る。夜中の2車線道路での180キロは少々こわい。出発は朝7時50分、夕方8時過ぎにアンカラへ戻り、街中の中華料理店で黄門さまと夕食。ホテルに着いたのは10時前。

 昼食はカッパドキア県の知事に招待される。折角の日曜日なのにご苦労さまと思う。


2001年1月15日(月)―8日目

出発の日も働くことに

 出発の日もついに働くことになった。

 9時半、首相府危機管理局長を再度訪問。水戸黄門御一行の訪土旅行のサマリーを報告する。最後のおつとめという感もあり、黄門さまはいつにもまして長口調。考えてみれば、相手はいつも変わるのに、こっちはずっと一緒だったのだから、長く感じるのは当然か。

 11時25分、公共事業省の次官(副大臣である)を表敬訪問。被災者用の住宅建設などについて、きわめてまとまった話をしてくれた。地震に対する知識の普及の大切さ、そのための国民啓蒙プロジェクトのこと、イスタンブールに起こる可能性のある地震に関して学者がそれぞれ勝手なことをいっている、何とかしたい。マルマラ地震、マルマラ湾の底にある断層などについて、大げさにいえば、世界中の地震学者の草刈り場と化しているようだ。トルコの建築基準の変遷についても、73年基準と98年基準の違い、98年の基準に則した建物は無被害だったという。マルマラ地震後に制定した建築審査法(2000年4月10日制定)の内容なども実にわかりやすい。なぜ、こんな話をもっと前に聞けなかったのだろう。

 この次官は、博士号3つと修士号5つを持つ元大学教授で、話がうまい。典型的な先生タイプの次官の話に、岡田黄門さまは完全にのってしまった。昼食は次官と一緒に役所の食堂でとる。相手側は15人位だが、ここでも話すのはもっぱら次官である。公共事業省を出発するのがやや遅れて、市内を170キロで走り抜けて空港へ(私はぐっすり眠っていて気付かなかったが)。

 午後5時半、定刻に飛行機は出発。西風が強く、予定より30分早い1月16日(火)の午前11時過ぎに成田着。足かけ10日間のトルコ旅行は終わった。(全体の終わり)


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