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IAEE事務局長14年−私の国際交流(その5)

 東京電機大学 教授 片山 恒雄


 私は、1988年から14年間、国際地震工学会(以下、IAEEと呼ぶ。)の事務局長を務めた。私の後は2002年に家村浩和さん(現・近畿職業能力開発大学校)が引き継いでくださり、2008年北京の会議後は芳村学さん(首都大学東京)が引き継いでくださっている。ところが、2004年のバンクーバーの第13回世界地震工学会議(以下、WCEEと呼ぶ。)の理事会で会長に推挙されてしまった。バンクーバーのWCEEの理事会では、IAEEの名誉会員にしていただいたので、「名誉会員がまた会長をやるの」と、当時の家村事務局長にうかがったところ、「名誉会員は長い間事務局長をやっていただいたことに対するもの、会長職とは別もの」と、あっさりかわされてしまった。

 IAEEの定款によると、総会で推挙されて2年間はいわば見習い、続く4年が正式の会長、さらに2年間は前会長として務めることになっている。全体で8年間が定款に定められた期間である。私は、2010年7月終わりにトロントで開催された「第9回アメリカ・第10回カナダ合同地震工学会議」に合わせて開いたIAEEの理事会で、まだ前会長という役は残るものの、4年の正式会長期間を終えることができた。新しい会長はポラット・ギュルカン(トルコ)である。

国際地震工学会とは

 IAEEは、国または地域を代表する地震工学の学術団体の集まりであり、2008年に北京で開催された第14回WCEEの時点におけるIAEEメンバーは56の国と1つの地域である。1つの地域は、台湾である。地震災害は経済的に恵まれない国で大きな問題となることが多い。そこで、なるべくたくさんの国が容易に参加できるように、8人以上のメンバーをもつ国内組織をつくれば参加できるとしている。きわめて緩やかな規定しか定めていないため、参加したときにリーダー的であった研究者の引退などによって、その国の活動がほとんど停止してしまった国もある。

 IAEEの事務局長は、事務局が置かれた国から選ばれることになっており、1963年にIAEEが発足して以来、事務局が日本に置かれているので、ずっと日本人が事務局長を務めている。初代の南和夫先生(早大・建築学科)は1963年から1977年までの14年間、そして二代目の大沢胖先生(東大・地震研)が1988年までの11年間を務められた。1988年、大沢先生は、体調を崩されており、お元気であれば、もっと長く務められてもおかしくはなかった。私が三代目ということになるのだが、こうやって比べてみると、とくに長く務めたというわけでもない。それに、三代目というとだいたいろくなことは無い。

 IAEEがいちばんはっきりと見えるのは、4年ごとに開催されるWCEEの場においてだが、実際には、会議の企画から予算などのすべてに対して開催国が責任を持つ。

 1906年サンフランシスコ地震の50周年を記念して、1956年バークレーで小規模な国際会議が開かれた。参加者50人ほどの小さな会議だったが、世界中から地震工学の専門家が一堂に会した最初の機会であり、このような会議を定期的に開催したらどうだろうということになったようだ。そこで、4年後の1960年に日本で2回目を開催したところ、これが大成功、WCEEが定着し、IAEEが設立された。3回目以降は、ニュージーランド、チリ、イタリア、インド、トルコ、アメリカ、日本、スペイン、メキシコ、ニュージーランド、カナダ、中国と続いている。北京の会議の参加者はついに3千人を超えた。第15 回会議は2012年にポルトガルのリスボンで開催される。

楽しくWCEEに参加していた頃

 私が初めてWCEEに参加したのは、第3回(ニュージーランド)であり、その後は、第4回(チリ)を除いて、2008年の第14回(北京)まで全部出席している。第3回のニュージーランドと第5回のローマのWCEEに関しては、それぞれ、このシリーズの(その1)と(その2)に書いた。

 第6回のWCEEは、1976年1月、インドのニューデリーで開かれた。ちょうどその会期中に、金井清先生が朝日賞を受賞されたというニュースが入ってきて、ホテルのダンスフロアで金井先生とダンスを始めたら、係りの人が飛んできて「男同士のダンスはまかりならん」とやめさせられたのを思い出す。会期中のツアーでタージマハールに行ったとき、ビル・アイワン(カリフォルニア工科大学)に、「カメラを持っていない日本人に初めて会った」と言われたが、ビルが大のカメラ・マニアであることはだいぶ後になって知った。

 第7回は1980年トルコのイスタンブールで開催された。日本を出るときから、政治的に不安定だとは聞いていたが、イスタンブールの街の角々には兵隊さんが立っていて、むしろこんなに安全なところはないように思えた。金曜日の朝、いつもなら朝早くから雑踏のホテルの外がやたらに静かだった。木曜日の夜中に、軍によるクーデターが起こっていたのだ。イスラム教の休日は金曜日なので、クーデターは木曜の夜に起こることが多いのだそうだ。さいわい、軍がすべてを掌握して、騒ぎは1日半ほどで収まった。

 第8回会議は、1984年の夏、サンフランシスコで開催された。まさにバブルの時代である。私は、研究室の大学院生などを含んで10人を超えるグループをつくって参加していた。何回かの日米共同研究や日米セミナーの日本側の事務方を務めたし、米国での学会にも出席していたから、アメリカの先生方には知り合いが多くなっていた。この会議の特別講演で、フランク・プレスが、20世紀最後の10年を、世界中の国々が協力して自然災害の被害を軽減する10年にしようと提案した。これが、「国際防災の10年(IDNDR)」として実現するのだが、当時の私は、後になって、個人的に深く巻き込まれることになろうとは予想もせず、カリフォルニアの青空を満喫していた。第9回WCEEは、1988 年に日本で開かれることになった。

グータラ事務局長

 他の先生方はともかく、14年間も務めたということは、たいしたことをやらなかったという証みたいなものだ。私の後の事務局長を決めていただくときに、ある方が、「片山さんでも務まったのだから」と応援してくださったが、まさにその通りである。

 14年間に、3人の会長と一緒に仕事をした。グランドーリ会長(イタリア)、ポーレー会長(ニュージーランド)、チェリー会長(カナダ)の3人である。正式期間を終えた梅村魁会長との2年間、見習い期間のエステーバ会長(メキシコ)との2年を加えると、5人の会長と一緒に仕事をしたことになる。人柄も仕事の仕方も、それぞれちがったが、どの会長もすばらしい方々で、私よりも活動的な事務局長が付いていたら、もっといろいろなことをされていただろうと思うと申し訳ない気がする。

 フランク・プレスが提案した「国際防災の10年(IDNDR)」は、1990年から国連プロジェクトとして正式にスタートした。また1990年前後には、ソ連、ユーゴスラビアの崩壊に伴って独立した国々を対象としたメンバー国の調整が必要となった。それまでのIAEEは、4年ごとにWCEE を開催する以外は、地震工学研究者の国際的な同好会のようなものだった。

 台湾の加盟問題は、米国の後押しもあって1980年代の初めから浮上していたが、IAEEの定款に「参加国は1国から1つ」と明示されており、中国がこの条項に基づいて反対の態度を取り続けていたため、ずっと先送りにされていた。

 1976年唐山地震を契機として、中国は地震工学の研究や地震防災に国を挙げて力を注ぎだし、IAEEにおいても活発に発言する国の一つとなっていた。一方、台湾の地震工学研究のレベルの高さも、多くの国際会議を通して知られていた。国際会議では、中国の研究者と台湾の研究者が同席することも珍しくなかったが、問題は、「一つの中国」という、政治的なものであった。研究者同士には大きな確執はなかったと、私は考えている。

 台湾のIAEE加盟は2000年ニュージーランドのWCEEの理事会で決定されたのだが、その前に、台湾を正式にどう呼ぶかが大きな問題となり、ほとんどこれだけを解決するのに丸2年近くを要した。定款にあった「国」という表現を「国及び地域」と直し、さらに台湾の国名を「Taiwan, China」とすることでやっと解決した。「確か」とは無責任な、と思われるかもしれない。事務局長としては、Chinaとか Chineseが先に来る名前だと総会のとき台湾が中国の隣りに座ることになってしまうことばかりを心配していた。できれば、TaiwanとかTaipeiが先に出る呼び方にして、中国から離れたところに座ってもらいたかったのである。しかし、その後、両者ともが実を取るようになり、北京のWCEEでは”Chinese TAIWAN”が抵抗なく受け入れられている。

 IAEEは、現在のところ、メンバー国から会費を徴収していない。会費徴収の件は何回も検討された。総論賛成だが、具体的に金額の問題になると、全参加国の賛成が得られるような案が出てこない。メンバー国には、数人の国内メンバーしかいない途上国もあり、年間100ドルの会費も簡単には払えない。また、今までは、日本が奉仕的に中央事務局の活動を支援してきたから、多少の不行き届きがあっても、「仕方がない」と許されていた。会費を徴収するようになると、かえってぎすぎすした雰囲気になりかねないと、私は個人的に考えていた。

 前事務局長の家村さんがこの問題に本気で取り組んでくださった。2004年のバンクーバーのWCEE のときの理事会で、「次回のWCEEから、参加者1人当たり参加費の3%または25ドルのいずれか多いほうを寄付していただく」という合意を取り付けたのである。これが適用された最初の機会が北京のWCEEであり、日本の事務局に4万1千ドルが振り込まれた。しかし、これを4で割れば、1年あたり約100万円であり、事務局の火の車状態は変わらない。

会議に出なかった4回の会議

 国際会議に出るということは、ふつう、自分の研究を発表したり人の発表を聞いたりすることである。しかし、第9回の東京・京都のWCEEからの4回の会議は、私にとって、自分の発表以外のセッションにはほとんど参加しない国際会議となった。

 日本で開催した第9回WCEEでは、開催国の研究者として裏方の仕事が忙しかった。大沢先生がご病気だったので、IAEEの理事会や総会を実質的に切り盛りすることになった。京都で行われた閉会式で事務局長として初めて挨拶したが、それ以降、マドリッド、アカプルコ、オークランドと、3回にわたって事務局長として挨拶することになった。

 最近のWCEEは、ふつう月曜にはじまって金曜に終わる。IAEE事務局としては、その間に最低2回の理事会と、加盟国代表の全体会議である総会を開かねばならない。理事会はたいてい火曜日に開催するが、1回では議論が終わらず水曜日にもう1回開くことが多い。木曜には、国の代表全員が集まる総会を開催する。総会はIAEEの最高決定機関であり、役員の決定、次のWCEE開催地の決定などは、すべて総会で行う。金曜の閉会式のあとに、新・旧理事による合同理事会を開く。

 私が事務局長になったころは、国の代表や理事との連絡は手紙だった。これがファックス、メイルと変わってきたが、メイルが普及していなかった時代の国際学会事務局の運営は今では想像もできないだろう。事務局からの問い合わせにすぐ返事をくれない人も少なくない。相手が適当にしかやらないなら、こっちも適当にやろう、と考えると気が楽になる。

 会期中にぜひとも決めたいのが、次期開催地である。会議の間に決まらない場合には、会議後に事務局長の責任で決めなければならない。これまで、幸いにも、そのような状況になったことはなかったが、「もし立候補国がなかったら」は、事務局長にとって悪夢にも近い。

 14年も国際学会の事務局長をやっていて良かったことは、世界の研究者仲間の間で大きな顔ができるようになったことだろうか。結局、人と人の関係が大切だということである。いくら頑張っても、乗り越えられない言葉のハンデがある。これは、仕方がない。ともかく、堂々とやること、それに、ユーモアのセンスがあれば十分である。そのかわり、話しをしなければならないときには、時間が許すかぎり準備する。最近は、若い研究者でも国際会議に出席する機会が多くなっているが、あまり準備もせずに発表する人たちには、もう少し真面目にやれと言いたくなることも少なくない。

 14年間もIAEEの事務局長をやっている間、わが国の地震工学の関係者には、本当にお世話になった。とくに、建築研究振興協会の太田三香子さんには、感謝してもしきれない。IAEEは、私無しでも何とかなったが、太田さん無しではどうにもならなかった。太田さんとは、スペイン、メキシコ、ニュージーランドの3回のWCEE におけるIAEE運営を一緒にやった。その後、カナダの会議を前に癌を発病し、亡くなってしまわれた(合掌)。(その5の終わり)


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