ホーム日本地震工学会

書庫 > コラム

二つの大震災を直後に見た中国人研究者の話

 東京電機大学 教授 片山 恒雄


 ハオ 憲生さんは、独立行政法人・防災科学技術研究所の研究員である。私は忘れてしまったが、防災科研にハオさんが就職するときに、私が理事長として面接したそうだ。ハオさんの専門は応用地震学だが、なかでも地震断層の研究に対する評価が高い。2008年5月に中国で起こった四川地震の断層を対象にした研究論文は、多数の専門家の注目を浴び、その中の図が国際的なジャーナルの表紙を飾った。専門家として、唐山地震と四川地震の両方の現地を地震の直後に見た人はほとんどいない。

 日本チームの一人として四川地震の調査に参加したハオさんは言う。「一生の間にまたこんなに大きな地震に会うとは思いませんでした。しかし、24 万人が亡くなった悲惨な唐山地震の記憶は、いまや消え去り、埋もれてしまいました。私たちはあの災難から、実質的に何の経験も教訓も得ませんでした」

 ハオさんは、今年の2月初め、横浜で開催された第15回震災対策技術展に参加していたリアルタイム地震情報利用協議会のブースに立ち寄って、そこで紹介していた映画「唐山大地震」の予告編を見てくれた。そして、ブースにいた担当者に、「私は唐山地震の3日目に唐山市に入りました」と、びっくりするようなことを言ったのである。会いたいというメイルに対して、次のような返事が返ってきた。一部だけを紹介しておこう。

 「当時、長春地質学院で卒業論文を書いていた私は地震の3日後に現地に入り、被害調査をした経験があります。
 我々数人の高学年生は、20 数人の低学年生と一緒にトラックに乗せられ、約 1,000 キロを二日かけて唐山まで走りました。夏の30度を超える高温のもと、道路のそばに無惨に置かれたままの死体が、町の至るところにあり、腐敗した死体から流れでる黄色い液体と息をすることもできない臭いのことは、一生忘れることができません。
 2008年四川地震の現場調査で再び甚大な地震災害を目の当たりにし、私は応用地震学者として自分の役割が何であるかを常に自問してきました。昨年、中国で映画「唐山大地震」を見て、私自身で目にしたこと思い出し、涙が止まりませんでした。
 先生のご都合に合わせて、場所と時間を教えて頂ければと思います」

というわけで、2月23日(水)の午後2時半に、私のオフィスでハオさんと話す機会ができた。ドアから覗きこんできたハオさんの顔を見て、「あっ、この人だったか」と、防災科研に務めていた頃を思い出した。

 唐山地震が起こったとき、ハオさんは22歳だった。地震が起こったことはその日の午前中にはニュースで知ったが、どこが震源かはすぐにはわからなかったようだ。これは、北京にいた地震学者にとっても同じことだった。

 1966年3月に起こったしん台地震は、M6.8 とM7.1の2つを合わせて、8,000人を超える犠牲者を出した。この被害を受けて、周恩来(国務院総理)は、地震の予知予報に全力を挙げるよう指示した。研究は、科学的というより、昆虫など動物の行動、井戸の水位の変化などの予兆現象を人海戦術で調べるという方向に進んだ。しかし、このような研究が始まって10年も経たないうちに起こった1975年海城地震に際しては、直前予知に伴う避難命令が発せられ、構造物の被害は広い範囲にわたったにもかかわらず、人命の損失は最低限に抑えられた。何よりも、海城地震のときには、小さな前震がたくさん起こったのである。

 これに対し、唐山地震は何の前ぶれもなく発生した。多くの地震学者が華北地区で調査を続けていたことは間違いない。地震があるかもしれないという噂は市民の間でも、ある程度は語られていたようだ。しかし、海城地震の成功例をもとに、多くの市民は、大きな地震の前には予知があり、警報が出されるものと信じていた。

 地震が発生した28日の午後、ハオさんたちは唐山地震の調査に行くよう言われた。メイルにあるように、数人の高学年生と20 数人の低学年生の合わせて30人ほどが調査に参加することになった。まず、車探しから始まったが、30人を安全に運べるようにトラックの荷台を改造する必要があった。結局、長春を出発したのは、翌29日になった。気温は35度にもなろうかという真夏である。屋根のないトラックの荷台に乗って、2日かけて1,000キロを走るのはたいへんだったに違いない。ラン河にかかる橋の多くは落ちており、渡れる橋はひどい渋滞だった。

 地震が起こってから3日目の7月31日、専門機関からの調査団ということで、なんとか橋を渡り、唐山に近づくにつれて、あらゆるところで悲惨な被害が見られるようになった。道路の両側には、遺体が二重にも三重にも積み重ねられている。死体から流れ出る黄緑色の液体、タオルを濡らして鼻を押さえても入ってくる臭いで息もできないほどだった。当時の中国では、まだカメラは普及していなかった。30人ほどの調査団が持って行ったカメラは2台だけだったが、あまりに悲惨な状景を前にして、ハオさんは7枚だけ写真を撮ってからはシャッターが押せなくなったという。それらの貴重な映像がどこかに行ってしまったことを、ハオさんは残念がっていた。

 重複するところもあるが、ハオさん自身の言葉をもう一度引用しておこう。「大きなコンクリートの塊に押しつぶされた犠牲者の姿、上半身が見えないままがれきの外に突き出た、人のものとは思えないほど膨れ上がった両脚、高温のもと、簡単に布でくるまれただけの死体が道端に二層三層に積みあげられている様子、そして、腐乱した死体の匂いは空気中を漂って消え去りませんでした」

 指令部のおかれていた唐山空港に着いたのは31日の夜遅くだった。31日は、重機が唐山市内に初めて運び込まれた日でもあった。空港は大混乱、そんな中で、高学年生は、皆のための水と宿舎を探さなければならない。司令部は、緊急作業の邪魔になるからと、ハオさんたちに長春に帰るよう命じたそうだ。結局、東から混み合う橋を超えて、唐山市内を通り抜け、唐山市西方の空港に至ったものの、もう一度同じ道を東に向かって戻ることしかできず、被災地にいたのは、合わせて2日間になった。

 長春市に戻ったのがいつだったか、ハオさんももうはっきりと覚えていない。8月2日か3日のことだったらしい。帰り着いた長春には、まだ唐山の惨状は伝わっておらず、新華社通信では、4人組がケ小平を非難するニュースがトップだった。地震後の9月9日、毛沢東が逝去し、ほどなく4人組も失脚してケ小平がリーダーとして3度目の復活を果たす。

 ハオさんには、地震後の唐山市内で見たもう一つの忘れられない情景がある。「ケ小平と右派を批判し、地震と闘い災害を救済しよう」叫ぶ政府の宣伝車に、市民が石を投げつけていたのだ。当時の中国では想像もできないことだった。「こんなに皆が困っている災害時、食べるものさえないのに」という市民の声が堰を切ったようにあふれ出たのだろう。文革が終焉を迎えるシンボリックな光景だったのかもしれない。(「唐山地震の調査−私の国際交流(その3)」と合わせてお読みいただければ、有難い。「私の国際交流」は次回以降に再開。)

 この文章を書いたとき、私には、ひと月も経たないうちに、3月11日の 地震津波と東日本大震災がわが国を襲うことになろうとは想像できなかった。 大震災の影響 はまだ終息していない。こんなことを書くだけでは、何の慰めに もならないだろうが、せめて、被災者の皆様へのお見舞いの言葉と、福島原発 の第一線で危険な作業に 従事してくださっている方々への感謝の言葉を書き加 えさせていただきたい。


このページの上部へ