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日米セミナー、宮城県沖地震-地震とライフラインと私(その2)

リアルタイム地震・防災情報利用協議会
会長 片山 恒雄

日米共同セミナー「ライフラインの地震防災」

 神戸地震の翌1996年9月、つくばの防災科学技術研究所に移るまでの25年間、私は東大生産技術研究所(生研)に勤めた。正確には、24年11カ月間。いつか、家内が「あと1か月居ればちょうど25年だったのに」と言ったことがある。実質的には何も変わらないが、25年ぴったりのほうが区切りが良かったことは確かだ。
 生研の時代は、久保慶三郎先生のお手伝いで、いくつかの日米共同研究やセミナーの日本側の世話役をやらせていただいた。セミナーは、アメリカでも日本でもやった。共同研究成果の取りまとめセミナーをハワイでやることが多かったから、ハワイでの会合は4,5回にはなる。当時の写真を見ると、梅村、久保、ペンジーンなどの懐かしい顔が並んでいるし、今もご健在の日米の先生方は、よく見ないとどなたか分からないほどお若い。これらのセミナーを通して、たくさんの建築の先生方とお知り合いになれたことが、私にとって大きな財産となった。この辺の事情については、前に、「日米協力が国際協力と思っていた-私の国際交流(その2)」という題目でコラム欄に書かせていただいた。
 そのひとつに、1976年12月に東京で開催した「ライフラインの地震防災に関する日米共同セミナー」がある。会議の途中で会場ホテル近くの泉岳寺に行ったらちょうど義士祭をやっていた。他の会議とごっちゃになっていたらお許しいただきたい。義士祭は毎年12月13日、14日に行われる。境内のお土産屋さんで私が中央大学にいた頃の卒論生だった大澤くんに会った。忙しいので、自宅の商売の手伝いをしていたのだ。
 このセミナーのアメリカ側の責任者はカリフォルニア工科大学のポール・ジェニングスだったが、「ライフライン」という言葉はまだ地震工学の世界に馴染みが薄いからセミナーの名前を変えたほうがよいと提案してきた。しかし、多くの参加者にとって、ライフラインという言葉こそ新鮮だったのである。結果的には、このセミナーは、ライフラインを主題にした世界で最初の研究集会になった。
 ポール・ジェニングスは、その後遠からずカリフォルニア工科大学の教務担当理事となって、研究分野から引退した。研究者としても一流だったが、抜群の事務能力の持ち主だったから、そこを買われたのだろう。もう20年以上も(もしかすると、もっと長い間)会っていないが、大きな笑い声とよく通るバリトンの声音はまだ耳に残っている。この会議には、日米両国からたくさんの方が出席してくださった。プロシーディングスが手元にないのだが、山田善一先生、土岐憲三さん、星谷勝先生、東電の江川さんなどは間違いなくご出席いただいていた。アメリカ側からは、カリフォルニア工科大学のビル・アイワン、カリフォルニア大学ロサンゼルス校のマーティン・デューク、当時コロンビア大学におられた篠塚正宣先生(現・カリフォルニア大学アーヴァイン校)などが来られたし、そのほかに日米からライフライン関係の実務担当者もたくさん参加してくださった。
 ここで、「土岐憲三さん」と「さん」付けで書いたことに注意してほしい。セミナーの何日めかが終わって、ホテルのロビーで一杯やっていたときのことだ。お酒も回って、「ほとんど同年輩なのに、お互いに先生と呼び合うのは不自然だ。これからは「さん」付けにしよう」と約束した。結局実現していないが、土岐さんは覚えているだろうか。
 この会議の年の8月18日に、フィリピン・ミンダナオ島で M7.9の地震が起こり、8,000人の犠牲者を出した。調査に行ったデュークには、この地震のことを報告してもらった。そして、これが、マーティン・デュークに会う最後の機会となった。

1978年宮城県沖地震

 「水道施設耐震工法指針・解説(1979年版)」の編集作業がたけなわの1978年6月12日の夕刻、マグニチュ-ド7.4の1978年宮城県沖地震が起こった。ちょうど東京都区部における地震被害想定が終わったばかりであった。
 私たちの家族は東京都の多摩市に住んでいたが、だいぶ年を経た2階の木造住宅はゆさゆさと揺れたらしく、家内は、まだ小さかった2人の女の子を抱きしめて揺れが収まるのを待ったという。
 東京都の水道・ガス管の被害想定でデータがなくて苦労したので、仙台の被害を徹底的に調べることにした。それまで、ライフラインの被害といっても、施設の被害を羅列的に示したものがほとんどだった。私たちは、地震発生時の供給システム、地震による施設被害の種類と供給支障の程度、そして施設と供給復旧の過程のすべてを記録に残すことにした。
 こういう形でのライフライン震災の調査は初めてだったが、その後、多くの研究者に受け継がれることになった。何回も調査に行ったので、行きつけのバーができた。経営者はいい歳のおばあさんだった。
 宮城県沖地震の調査では、消防・救急活動とごみ処理に関してもできるだけ定量的なデータに基づいて検討した。いずれに関しても、当時としては初めての試みだった。消防車1台ずつの出動を時間軸上で調べるなどは、なんでも調べてやるぞという意気込みの現れであったが、そんな調査ができること自体が、被害がそれほど大きくないことの証でもあった。東大生研の所報「生産研究」に5編の報告をまとめたが、その1編1編が読み直すと懐かしい。
 5編目のあとがきに当時の思いが書いてある。「従来の地震被害報告書はあまりに構造物に偏りすぎていた。都市の地震防災という観点から過去の被害調査報告を読むと、きわめて定性的な記述と通りいっぺんの統計の羅列で終わっていて、都市防災に役立つ情報が欠落している」「丁寧に資料にあたっていくと、震災を自ら経験し、復旧作業に携わった人たちが部内資料としてまとめた報告書の中には、都市震災に対する示唆に富んだ資料や提言が含まれている・・・しかし、このような貴重な資料は表に出ないままであることも多い」
 宮城県沖地震のライフライン被害調査の大部分は、こういった部内報告書に基づくものだった。関係機関内で起こった震災後の「混乱と試行錯誤の過程」こそが本当に役立つ情報になるという立場である。
 この当たりのいきさつは、磯山龍二さんが日本地震工学会誌(第8号 2008年7月)に書いた「1978年宮城県沖地震-ライフラインの被害と教訓」に詳しい。

(その2の終わり)

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