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色々なことに手を出した-地震とライフラインと私(その4)

リアルタイム地震・防災情報利用協議会
会長 片山 恒雄

 1980年代以降に書いた論文や雑文を見ると、我ながら色々なことに手を出してきたという気がする。どれも完成させたという印象が無いのが、また、いかにもわたし的である。全てがライフラインの範疇に入るとは言えないが、そのうちのいくつかについて書いておきたい。

ライフライン網の機能低下

 磯山龍二さん(現・エイト日本技術開発)が東大の土木工学科に博士論文を提出したのは1980年12月である。磯山さんは、地震で被害を受けたライフライン・ネットワークにどのような機能低下が生じるかという問題に取り組んでくれた。ところが申し訳ないことに、私は、磯山さんが博士論文を提出するいちばん大切な時期に6週間も、ユーゴスラビアのスコピエに出張してしまった。当時メイルなどという便利なものがあったら、毎日、草稿に追い回されることになっていただろう。
 帰国して論文がちゃんと提出されたことを知ってホッとしたのを思い出す。まったくひどい指導教官だった。博士論文の一部は、「大規模水道システムの地震時信頼度評価法」というタイトルで土木学会論文報告集(1982年5月)に発表されている。この種の研究のおおもとのアイディアは、篠塚正宣教授(当時 米国コロンビア大学)のものだが、より現実的な応用という意味では磯山論文が最初だと思う。ネットワークの地震時信頼性の問題はこのあと何人かの研究者が扱うこととなったが、磯山さんの論文はその嚆矢となった。ともかく、なんとなく新規な内容と将来性を買われたのだろう、この論文は1982年度の土木学会論文奨励賞を受けた。有難いことに、私も2番目の著者として名を連ねている。
 大規模水道システムの幹線網を対象にして、供給点と需要点の連結性、管路性能、配水池水位、供給量と需要量のバランス、地震時の水供給戦略を考慮して、シミュレーションによって機能の信頼度を求めようとしたものだった。面白いと同時に、仮定の山の上に築かれた研究でもあった。
 東京都の幹線水道網を切り出してきてネットワークモデルをつくり、そこに関東地震クラスの地震が来たらどんなことが起こるかを調べようとしたものだ。1つ1つの路線は管の材料も太さも違う。埋められている地盤の性質や深さも違う。また、長い路線ほど地震が起こったときにどこかで壊れる可能性が高い。破壊の確率がすべて異なるのだ。計算機の中でドーンと地震を起こすと、ネットワークの中の4か所が壊れるかもしれない。壊れた状態でどこに水がいくかをシミュレートする。もう1回同じような地震を起こしてやると、今度は違う場所で5か所壊れるかもしれない。そのとき、どこに水がいくかをシミュレートする。こういう計算を何百回も繰り返すと、平均的に水の行きやすいところと行きにくいところがわかってくる。
 磯山さんは1978年に武蔵工業大学の星谷勝先生のところから私の研究室の博士課程にやってきた。私はすっかり忘れていたが、彼の弁によると、博士課程では地震動の性質について研究するつもりだったそうだ。ところが、この年の6月に宮城県沖地震が起こった。私たちは、この地震のライフライン被害の調査に全力で取り組むことにしたので、磯山さんにも協力してもらうことになった。結局、磯山さんをライフラインの世界にどっぷりと引っ張り込んでしまった。
 もう一つ磯山さんについて忘れられないことがある。たぶん1979年のことである。半年間ほど磯山さんにスタンフォード大学に行くチャンスをあげることができた。そこで、彼の歓送会ということで、昔の生研の地下室にみんなで集まって一杯やっていたときのことだ。久保先生と磯山さんが大喧嘩を始めてしまい、後味の悪いお祝いの会になったのである。何が原因だったかはまったく思い出せない。昔の生研の地下室といえば、部屋の真ん中にあるマンホールから下水の匂いが漂い、野良猫が出没するため床に蚤がいるので、なるべく床から足を上げて座ったりしていたことも、今となれば懐かしい思い出である。

ミクロな地震被害想定 

 1980年代の終わりから90年代の初めにかけて5年間、損害保険料率算定会と一緒に、たぶん世界で初めて GIS を取り入れた地震被害想定調査を行った。損害保険料率算定会から毎年1冊、全部で5冊の報告書を出したが、いま私の手元には1冊もない。東京都内の3つの地区、それぞれが地域的に異なる特徴を持ち、人口はせいぜい3万人位のところを対象に、みんなで地域を歩き回って建物1軒1軒を記録するとともに、地盤や地盤特性から想定される周期などをもとに被害想定を実施した。「みんなで」と書いたが、じつは私は街歩きには1回も参加しなかった。(申し訳ない。)
 3つの地域としては、麻布、世田谷区の弦巻・桜新町、それと墨田地域を選んだ。どこも、研究を一緒にやったメンバーのだれかが住んでいるか働いていて、土地勘があるところを選んだ。1軒1軒の家の建築年次、木造かRCか、何階建てか、そして用途は何か、推定できるおよその地盤条件などを使って3つの地域の地震被害の違いを考えてみようというわけであった。
 それまでの被害想定では、500×500メートルのメッシュの中を赤く塗るとか緑に塗るとかして、危険か安全かを表していたが、これでは、自分の家がどこにあって、その周りで何が起こるのかという緊張感を得ることは難しい。1軒1軒の家が見えるミクロな視点があって初めて、想定結果を本気で見るようになる。同じような緊張感は想定する側にも生まれる。メッシュの塗りわけとは違って、1軒1軒の家が見える想定をしなければならないとなると、2軒並んだ家の片方は赤で片方が緑というときには、本当にそうかということを慎重に考えざるをえない。
 いまから考えると幼稚だが、当時としてはかなり先見性はあったと思う。毎年その年の研究が終わると、参加した7~8人全員が泊まりがけで温泉に行き、その年の調査結果について自由に話し合い、それをそのまま年度報告書の最後に付けた。研究そのものも注目してもらえたと自負しているが、この放談会が面白かったと言ってくださった方が何人かおられた。テープ起こしは私がやり、小見出しも私が付けた。これは結構大変な作業だった。5年間の調査を終えた段階での私たちの感想は、「きわめて興味深く将来性のある手法だが、中規模以上の都市レベルに適用することはまだ難しい」ということだった。色々な仮定が入っているので、結果がどこまで信頼できるかという点に関しては、従来の震災想定でも同じことである。多量の計算はコンピューターが得意とするところだ。私たちが最大の難点と考えたのは、中都市以上になると、地域に関する膨大なデータベースをつくることが、ほとんど不可能に思えたことであった。
 ところが、1995年神戸地震後、GIS を震災想定や地震防災に使おうという動きがあちこちで出てきた。私たちが考えたものと近い形で被害を受けた建物をプロットするとか、被害の状況をプロットするとかいうことが、ずっと広い地域に対して行われるようになり、ミクロな被害想定が現実のものになった。いまでは、大規模な都市レベルでの応用が提案され、実際に行われている。日本だけではない。1999年マルマラ地震(日本では、エルジンジャン地震と呼ばれることが多い。)の後、トルコ政府の招待で復興のようすを見に行く機会があったが、どこでも聞かされた言葉の一つに GIS があった。しかし、ご一緒した岡田恒男 先生の言葉を借りれば、「GISを使った防災システムが出来たからといって、地震対策が出来上がったと考えてはいけない」ことを銘記すべきであろう。

迷路実験・エレベータ・ロマプリエタ地震․․․

 1990年前後にやった迷路実験も、当時としてはあまりやられていなかった研究だと思う。ビルの中で火災にあった人たちの行動を調べモデル化しようとしたものである。池袋駅の近くにある豊島区の防災センターの体験コーナーをお借りした。ここには、開かないドア、開くドアを持ついくつかの部屋がつながった施設があり、煙の中でどう行動し、出口にいたるかを外から観察できる。近くのデパートが新人研修に使ったりするそうだ。煙といっても、もちろん本物ではなく身体に影響はない。繰り返しによってどんな学習効果が現れるか、年齢や性別による違いはあるかなどを調べた。
 学生の被験者集めはそんなに難しくなかったが、一般成人の被験者を集めることは容易ではなく、記憶が正しければ、当時小学校のPTA 役員をやっていた家内にも人集めに協力してもらった。ただし、家内本人は来なかった。女性の被験者の中には、どのドアを触っても開かないため、部屋の真ん中にしゃがみ込んでしまう人もいた。しかし、繰り返しによる学習効果は女性のほうが大きいという傾向が得られたと記憶している。
 この研究に先立って、私たちは小規模ながらバーチャルリアリティー(VR)の装置を導入した。たぶん、大学における防災研究に使うことを目的としたVRとしては初めてのものだったのではないか。VRを用いて迷路の中身を勉強することで避難時間が短くなることは明らかだった。VRの装置は、研究所公開のときに、子供たちに人気があった。エレベーターの地震対策に関して問題を提起したのは、やはり1990年代の初めであり、比較的早かった。これに関しては、山崎文雄さん(現・千葉大学)の貢献が大きい。
 ウォーターフロント開発についても何度か発言している。忘れられない思い出がある。米国西岸を1989年に襲ったロマプリエタ地震の東京都調査団の団長として、私は南忠夫さん(地震研究所)、広井脩さん(新聞研究所)、梶秀樹さん(筑波大学)と一緒にサンフランシスコへ行った。都庁の方や何人もの会社の方々もご一緒だった。このときの報告書には、従来お役所がつくる茶色い馬糞紙の表紙は使わず、「いつか、東京にも?」というタイトルとデザインも工夫した。章や小見出しの名前も一ひねりした。
 出来栄えは想像以上でいまでも満足している。多くの方からは、好意的に迎えられたが、もう私の手元には一冊もない。増刷ありとのことだったが、上質の紙を使いカラー頁を増やしたりしたため、予算オーバーでそれはならなかった。この報告書でも、南、広井、梶、私の4人で座談会をやり、そのテープ起こしを報告書に付けた。座談会は「東京都に提言する」とし、従来の報告書が1ページほどの箇条書きでまとめる提言を、フリーな放談の中に込めようとしたのである。
 その中に南さんの「今度の地震の大きな特徴は、軟弱地盤だ。… 特に今度東京都が計画しているウォーターフロントはまさにそういうところなのだが、私が見る限り、どうもちゃんと研究し尽くされていないし、十分な対策が打たれていないような気がするので、ぜひ今回の教訓を生かして十分な対策をしていただきたい」という発言があり、私がそれを受けて、「私もウォーターフロントには個人的に多少言いたいことがある。あれだけ大規模な計画の実施設計とか、もうほとんど工事着工が目前になって … 液状化の調査委員会をつくって去年からやっているとか …」と発言した。いま読みなおすと、「多少」という副詞をつけたところなど、いかにも大学の先生的だ。
 報告書が完成して、都の関係者も含めてみんなで祝杯をあげていたときである。突然、都の港湾局の幹部が電話してこられた。「あのウォーターフロントに関する発言はなんですか」というご叱責であった。宴会の会場には、それ以前にも幾つかの新聞社から電話があって、液状化の部分が興味を引いているなという感じは受けていたが、まさか関係部局の幹部から電話があろうとは想像もしなかった。何と答えたかは覚えていない。いずれにせよ、報告書はその日の午後にプレス発表されていた。
 ロマプリエタ地震から、そろそろ25年が経とうとしている。この間に、南先生と広井先生がお亡くなりになり、一緒に調査に参加した東京都や民間企業の方々もほとんど引退された。1889年は私が50歳になった年であり、元気だったなぁとつくづく感じる。

(その4の終わり)

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